実践版 三国志《諸葛亮編》
諸葛亮は「蜀」の名軍師としてよく知られています。
当時、放浪者だった劉備に「天下3分の計」を授けました。
歴史的な結果を残し、現代でも語りつがれる三国志という時代を作ったのです。
もちろん、たった1つの計略だけで時代を動かせた訳ではありません。
1、最強勢力につかなかった
2、周到な計画力
3、厳格なルール作り
諸葛亮のような天才でも、手本となる人がいて、そのようになるために計算して行動していたようです。
1、最強勢力につかなかった
諸葛亮が劉備に出会ったのは25歳の時でした。
当時、魏の曹操は国を形成していて、呉の孫権も一大勢力を率いていました。
そのどちらにも仕官せずに、田舎で畑を耕して暮らしていました。
諸葛亮が情熱を注ぐ事ができると感じたのは、出来上がった組織ではなく、これから開花するであろう場でした。
そこで訪ねて来たのが、劉備というわけです。
劉備は志はあるものの、長いあいだ放浪生活をしていました。
部下にも恵まれ、居候していた先々で実績も積んでいました。
諸葛亮にとっては、これほどの好都合な相手がいたでしょうか。
しかし、劉備が訪ねて来てもすぐに会おうとはしませんでした。
居留守を2度使い、相手の出方を伺いました。
待望のチャンスが来ても、飛び付かずしっかり品定めして決断しました。
どういった環境で努力すれば結果が出せるか。という所から戦略の内でした。
仕官する前から、国作りは始まっていました。
諸葛亮は劉備に出会ってすぐ「天才3分の計」を披露します。
この事から、対面してすぐ劉備を信頼していた事がわかります。
後に見事、天下3分の計が成された事を考えると、諸葛亮の先見性は確かなものだったと言えるでしょう。
2、周到な計画力
「管仲」は春秋時代の「斉」という国の政治家です。
管仲は、国民の安定と規律を重要視しました。
その上で強兵をしました。
国作りにおいて何が大切かを考えてあったので、何をするべきかが明確化されていました。
そこで諸葛亮も内政に力を注ぎます。
治水専門官の職を作ったり、塩・鉄・綿の生産力を強める事で交易に力を入れました。
また、制圧した南方の民俗を国内に移住させ人口の増加をしつつ、異民族の保有していた資源を国有化しました。
諸葛亮は優れた発明家でもありました。
教育を受けていない南蛮民族のために、字が読めなくても理解できるよう紙芝居を発明しました。
生産力を高めるために、様々な農工機具を発明しました。
農民をしながら、有事の際にかり出される兵士のために、短時間の訓練でも強力な威力を出せる連弩という兵器を発明しました。
他にも、運搬効率をあげる為の道具、戦場で離れた見方に合図できる道具、玩具から生活用品まで、様々な物を発明しました。
今まで無かった物を発明することで、効率化をはかり成長スピードを加速させる事ができました。
こうして内政業務に翻弄しました。
内政以外にも、租税徴収・兵士の確保・軍糧の確保と補給業務に力を発揮しました。
その一方で、軍事に関しては「法正」「法統」という軍略に長けた人を配置していました。
得意分野がある人にはその分野を、自分は自分の得意分野に特化しました。
3、厳格なルール作り
「蜀」が建国されるとほぼ同時期に「蜀科」という法制度を制定しました。
この法律は、諸葛亮が中心となって作られたものです。
厳しい法律ではありましたが、例外なく公平無私に裁かれたので庶民からの反発はありませんでした。
諸葛亮と、とても仲の良かった「馬謖」という武将は、命令を無視して行動した為に、戦で惨敗しました。
馬謖は裁判によって斬首されますが、諸葛亮は涙を流して見送ったという有名な話しがあります。
正しく法律を適用したので、国民生活は安定し、軍隊は規律を守り、国家としての機能を安定させました。
《まとめ》
諸葛亮は戦略を練り上げ、実行に移す意味で天才でした。
現代に生きる私たちも、努力する前に今ある現状を把握するところから始めるのがいいでしょう。
何かを始める時、そこで努力するだけの価値があるのか、を見極める事は大切です。
今ある場所で頑張るなら、1度手を止めて客観的に現状を分析してみるのも効果的かもしれません。
現状を分析してみて、努力の方向が間違っていないか確認してみましょう。
また、手本にする人を見つけて研究することで目標への近道になるでしょう。
そして、ルールを定める事で行動や努力が正しいのか否かが判断できます。
判断ができれば、自己評価もしやすくなります。
努力をしているが結果がついてこない時の改善に役立つかもですね。
以上、最後まで読んでいただきありがとうございました。